新たなステージでの発見
久しぶりの投稿になります。
今年の4月に母校の教員として野球部コーチに就任し、今年も残すところあと2週間ほどとなりました。この一年は僕の人生のターニングポイントでもあり、新しい価値観に出会えた年でもあります。
この1年で感じた事を少しずつ残していきたいと思います。
まず、育成という環境下において重要だと思った事は、「投資」という考え方です。
(社会科の教員である事はさておき・・・)
資本主義社会の中で生きていくためには、誰が資本をもって、労働者はどのようにして収入を得るのか。もっと言うと、お金とは何なのか。
収入とは時間に対する対価なのか?など、仕組みを理解することが重要になってきます。
この揺るぎない概念と向き合うことで、充実した生活を送る事ができます。
教育、人材育成、スポーツの環境下でも同じです。
僕は、この仕事に就いてから、”教える”という考え方に違和感を覚えました。
まずは、物事の仕組みを、不変の事実や歴史や科学などの側面から、理解してもらう。
その上に、様々な引出しを用意してあげることで、自分と向き合い想像力を働かせながら、成長を促す。このプロセスを共に作っていく事が大切なのだと思います。
このプロセスにエネルギーを吹きかけることこそが、前途洋々たる未来が待っている高校生を大きく育てるための「投資」にあたります。
では、現場での「投資」とは何なのか。
【”共感”を生み出し、”意志”を持たせる】ことがその投資です。
このアプローチに「醍醐味」があります。
何より、高校生の成長スピードは想像を遥かに超えてきます。そのスピードに負けないように、1歩先を見て常に勉強を続ける。これが非常に難しくやりがいのある時間でもあります。
前職であった広告代理店では、人材が資産だと言われていました。
人が資産なわけですから、稼ぎを生み出す何かを持っていないといけません。つまり、上司のいうことを何でも「はい」と言って、走り回る。
これでは資産にはならないわけです。雑務の外注と同じでただのお荷物(コスト)です。
広告代理店は、世に知れわたるような商品を持っているわけではありません。
自分たちのアイデア、発想、営業力、人間力など、様々な価値をお客様に提供して、その対価としてお金をもらっているわけです。
資産とは何かを痛感させられた現場でもあり、労働者の限界が見えた世界でもありました。
そこから一転、教育現場、高校野球の現場では、これから世の中で活躍していく人財を遺していく立場に変わりました。
生徒にとって資産となり得るものは何かと考えたときに、生徒に伝えたいことのひとつに、僕自身の経験から「自分で切り拓く」という事があります。
実際に、アマチュア野球の最高峰で学んだこと、野球から離れた世界でみた現実、これらの経験は波瀾ではありましたが間違いなく僕にしか出せない引き出しとなって今の教員生活に活かされています。
上の世界に行って、社会に出たときに助け舟はやってきません。
僕にも助け舟はやってきませんでした。笑
(危うく死ぬところだった・・・笑)
最後に信じられるのは親でも友人でも上司でもありません。
紛れもなく「自分」しかいません。
ピンチが訪れたときに、信じられる自分でいられるように生きていかなければいけない。これが、「切り拓く」ということです。
僕の考える投資の行きつく先はここだと思っています。ここまでこれば、生徒たちに「まかせた!!」と言えます。そして、生徒たちは掴んだモノを確実に自分のものにしていきます。
株式投資で言うところでの、盤石の決算と言ったところでしょうか。
そのためには、思考力、想像力、発想力、忍耐力など、多面的に能力を持ち合わせて、バランス感覚のよい人間になるということが重要です。
また、バランスという点においては、人格的の面で適度に弱さや隙を見せられるという事もポイントです。
野球でもビジネスでも、このバランスが取れている人は大きく成功しているように感じます。
たとえばイチロー。
野球では、究極のプロフェッショナルとして振る舞っていて、記者が近づきにくい異様なオーラを放っています。また、とても知的で隙がありません。
野球から離れたイチローはどうでしょう。
昔からの友人を大切にするところ、子どものように騒ぐところ、いかにも人間らしく柔らかい表情を見せます。
師匠の阪口先生はどうでしょうか。
代名詞は、猛練習に裏付けらる「鬼の阪口」。
しかし、鬼の子たちがそんな先生についていくには理由があります。
中学生がそのまま大人になったかのような無邪気な姿を見せる時もあれば、鬼の如く厳しく指導される事もあります。
このバランスが絶妙だと当時から感じていました。心理学の世界でもこのバランスは、「人の心」を動かすには重要なことだと証明されています。
阪口先生の洗礼された人格は、自然と理屈を凌駕しています。
これがまた魅力的…心酔するばかりです。
先生の座右の銘「人の心をもらいなさい」とは、理にかなった最強の教訓なのです。
僕も、この教訓は指導の根幹に持っています。
最後に・・・【共感から意志へ】
次は、今シーズンの野球について書きます!
指導者に見てほしい【野球が下手になる練習法】
相変わらずTwitterやnoteでは、野球理論が活発に議論されています。
コロナということもあり、今はインプットに時間をさける時期かもしれません。
今日は野球の練習法について書いていきます。
毎日やっているであろう練習です。
とても単純な練習なのですが、動きを間違えるとやればやるだけ下手になります。
強豪校の選手でも勘違いをしている選手が多くいます。
トスバッティング(ペッパー)です。
この練習は通常、二人組で行います。
投げ手と打ち手に分かれて、打ち手はなるべくワンバウンドで相手へ返すというのが一般的なやり方です。
『ワンバウンド=ゴロ』と解釈している人が90%くらいなのではないかと思います。
しかしこれが落とし穴です。
『ワンバウンド=ゴロ』の解釈では、ドアスイング養成所になってしまいます。
なぜならば、ゴロを打とうとするあまり、ヘッドを操作させて上から潰すようなスイングになってしまうからです。
試合に活かせる練習ではありません。
近い距離、ゆっくりとしたスピード感だからこそ、意識の範囲内で理にかなった動きを続けていくべきです。
練習の時間としては非常に短いですが、この積み重ねができない選手に伸びしろは感じません。
理想のトスバッティング
僕のおすすめは、ノーバウンドで返す事です。
いい具合に手首の無駄な力が抜けて、ヘッドが遅れて出てきます。
また自然とボールの軌道にバットを入れるようになります。
そのまま力を入れて振ればホームランになるというスイング軌道に自然と近づきます。
僕は大学時代の毎日練習で20球ノーバウンドで返していました。4年間です。
無意識にバットの軌道がボールに対して最適な軌道を描くようになり、おかげさまで神宮通算打率は.340を記録しました。
必ず結果につながる練習ですが、解釈を誤ると下手になっていきます。
とくに指導者の方は、概念をしっかりと伝えることが大切です。
概念を与えて思考を促す事が、選手の成長をどんどん加速させていきます。
次回は、すべてのアスリートに共通する「走り方」について更新したいと思います。
岐阜ホームレス殺人 ~指導者が悪いのか?~
岐阜県で起きたこの事件。
岐阜県大学野球リーグの強豪校の部員が関与していたとして、野球部の在り方や指導を問題視する声や野球部への批判が集まっています。
大変心が痛むニュースです。
当然、野球部員が起こした事件ですから、野球部として謝罪をすることは筋を通す意味でも必要なことであるし、それなりの処分が下って然るべきだとは思います。
一方で、「犯人=野球部、犯人=指導者」ではないことに違いはありません。
殺人に関わった人間が悪いに決まっているんです。。。
そいつが人間として下劣極まりないという厳しい判決を受け、一生をかけて償っていくのが本質ではないでしょうか。
野球部の指導者が持つべきポリシー
いくら犯人が悪いとはいえ、野球部の関係から4人も出てしまっては話が変わってきます。警察に相談もあったそうで、防ぐことはできたのかもしれません。
しかし、普通の人間なら「人を殺す」という感覚がなくて当然。
日常から「殺人は良くないぞ」というような教育をしていればよかったというのでしょうか?
そんなことは指導者が教えることではありまん。
人間として生まれた瞬間から親が教えることです。
残念ながら犯人たちは人間としての心が欠落しているのです。
指導者が変えることのできない人間の共通部分は、「育った地域性・家庭環境」
これは生れながらにして育まれていく他人の介入不可な領域なのです。
今回の事件も、人を殺しても平気な環境で育ってきた可哀そうな子たちの犯行でしょう。そのように思ってしまいます。
そんな子に育てたはずはない。では済まされない。やり直しはないのです。
では、野球部ではどのような指導をすればよかったのしょうか。
単純に「被害の相談があった段階で野球部を退部させておけばよかったのか?」という問題ではないと思います。
僕はこの考え方には反対です。
指導者とは、選手の”人格・人生”の請負人でなければならないからです。
心豊かな人生の1ページを創っていく
そもそも、そうならなように心の充実感を与えることが指導者の役目ではないでしょうか。
「犯罪を起こさない指導をする」「礼儀正しい人間を作る」など小さな話です。
そんなものは指導者でなくてもできます。
本質は、心の底から「熱い人生を送れている!!」と思えるようなマネジメントをすることだと思っています。
それが野球でもバスケでもサッカーでも同じ。
はたまた吹奏楽、演劇、なんでも同じでしょう。
心の底から夢中になれる。熱くなれる。本気になれる。
そんな時間と組織を創り出していくのが指導者の役目です。
「礼儀を教える」なんてものが目的化しているような組織は本物ではないと思っています。
なぜ礼儀が大切なのか?を突き詰められるか、体現できるかが肝心でしょう。
挨拶ができれば何をしてもいいのか?
そんなことを学ぶためにに野球をやっているのではありません。
全ての事象に人間の心が通っている
他人の心がわかる人、自分の心を受け取ってもらえる人
その心の先に「礼儀」「マナー」「ルール」が存在するという順番を忘れてはなりません。
野球を通して、そんな人格を創っていくのが指導者の役目ではないでしょうか。
そして、野球を通じて心豊かな瞬間を噛みしめること。その体験で今後の人生をさらに豊かなモノにしていくことが必要なのです。
ですから、甲子園に行ったことのある人間は、心豊かな体験が増え、今後の人生の糧になっていきます。
良いとか悪いとではなく、必ずプラスになる事があるということです。
鳥肌が立つエネルギーが漲ってくるような経験、人生を送りたいですよね。
それがスポーツの良さでもあります。
今回の殺人と野球部は切っても切り離せない立ち位置であるということ。
心が育つ環境を作り与えてあげることは指導者の仕事。
これが現場で生徒たちを見ていて僕が感じることです。
一流は人を遺す~野村克也が残した指導哲学~
こんばんは。
コロナ危機に直面していますが皆さんいかがお過ごしでしょうか。
僕は、この除菌水ジーア を使って生活しています。
除菌効果もあるということで徹底対策が必要ですね。
おススメですので、ぜひ万全の対策でお過ごしくださいませ。
今日は、指導者として大事にしている言葉をご紹介します。
先日お亡くなりになられた野村克也さんは、野球という道を通じて、真の一流というものをこのように語っていました。
”一流は人を遺す”
名著「7つの習慣」においてスティーブン・R・コヴィー氏は、「人格主義」でしか真の成功を得られないと述べています。
完訳7つの習慣 人格主義の回復/スティーブン・R・コヴィー/フランクリン・コヴィー・ジャパン【合計3000円以上で送料無料】 価格:2,420円 |
社交的なイメージの醸成や、その表面的なテクニックを磨いたところで、誠実・謙虚・忍耐・勇気など内面的な人格が磨かれていないと真の成功にはたどり着けないのです。
さらに、私的成功から、公的成功を成し遂げることが人生の成功に導くと述べています。
まさに、野村さんが仰られていた人を遺すということは成功の哲学そのものなのだとつくづく感じます。
あれだけの成績を野球界に残された方が定義する一流の概念は野球だけに通ずるものではなく、かっこいい生き方をしろよ。と、そんなメッセージを感じます。
そんな野村さんが貫いてきた指導哲学があります。
人の成長に応じて三つの接し方を使い分けるということです。
「無視・称賛・批判」
今、指導者としてグラウンドや教壇に立とうとしている僕も大事にしている言葉です。
野球を通して豊かな人生、野球に囚われない成功を収めるための秘訣が隠されています。
無視
ここからは野球の話を交えて書いていきます。
まずは
「無視。」
あえて無視するということです。
プロ野球で言うならば、2軍の選手の事です。
しかし、眼光は光らせておくのです。
しっかり見ているぞ。しっかり結果を残せよ。という心を持ちながら無視をします。
チーム運営においても大切な要素なのかもしれません。
トップに立つ人間の役割ともいえるかも言えます。
シビアな姿勢を保つことは、実力主義、競争意識の活性化を起こします。
2軍には2軍のコーチがいることもそう。余計な事を口にしない。
選手、コーチに”任せる”という行為は、信頼の合図でもあります。
この”無視”には、信頼と激励のメッセージが込められているのです。
称賛
次に使うのが「称賛」。
これは、1軍と2軍の狭間にいる選手、1軍で控えの選手たちへの接し方です。
選手が喜びとやる気を引き起こす「称賛」をあえて控え選手に送ります。
さらなる鍛錬を促しレギュラー選手を脅かす存在になることで、競争を絶やしません。
この称賛のタイミングが肝心だと言います。
なぜレギュラー選手に送るのではなく、控え選手なのか。
「称賛」をもらうことが目的化していては成長がないからです。
チームとしての勝利、選手の成長をゴールにおいているからこそ、満足感を与えないという視点は大事なのかもしれません。
批判
最後にレギュラークラスの選手には「批判」です。
野村さんの下で野球をしていた選手は、野村さんの”批判”を受けると一人前になったと感じるそうです。
一流の選手こそ、認められているという信頼関係の下に、批判を受け入れることができるのだと思います。
先に述べた名著「7つの習慣」においても、成功の源泉は、人格にあると言います。
一流には技術ではなく、批判を受け止める謙虚さ、寛大な心、誠実さを求められる。
この指導からわかるように、野村さんは真の一流・成功者なのだとつくづく感じます。
指導者は、野球というツールを使いながら人格を育み、次なる成功者を生み出す事が、真の成功であり、プロフェッショナルであると心に刻まなければいけません。
専門家と指導者はちがう! 高校球児と向き合うこの時期に・・・
批判も多いでしょうが、最後まで読んでくださると幸いです。
近年の野球界では、データの発達や新しい技術論の確立と共に、SNSやyoutubeなどでそれらが簡単に手に入るようになっています。
もちろんいろんな人が情報発信をできるということです。
参考になる事ばかりですが、どこか理屈や理論が先走っている気がしてなりません。
そのような人たちの多くは、現場の感覚というものを除外した専門家であるにすぎません。これが僕の感想です。
そんな理論が確立していて、技術が発達していたらみんなプロに行ける。
でもそうじゃないんだよなぁと思うこの頃です。
コロナウイルスで自粛を余儀なくされるこの時期に思うのです。
「熱く燃えるような闘いがしたい!!!」
確かに技術を向上させられる期間・・そうなんです。そうだけど何か違うんですよね。
何が違うのかというと、試合(勝利)がないと技術を磨く意味って何なんでしょう。
この時期だからこそ原点に戻ると、そもそも野球って勝利至上主義なんです。
このスポーツは勝つことが目的のスポーツです。
その中で、人生を豊かにするヒントを見つけていくのです。
この練習したから球が速くなる。
理論にそぐわない指導者は時代遅れだ。
ゴロなんか打ってる時代じゃない。
とか、どうでもいいんですよね。
現場はそうじゃない。
やっぱり、野球は勝利を目指して戦う心を燃やしてやるもの。
熱い男の世界なのだということに気づかされます。
なんか野球界が変に器用貧乏になっている気がします。
勝利のために身を捧げる。
こんな戦いがしたい。。
現場の指導者はチームと向き合う。勝利と向き合う。
専門家とは決定的に心の燃え方が違う!!!
高校野球。勝利至上主義。当たり前だろ。
ゴールデンレトリーバー ポン吉 我が家のアイドル
我が家には、5年前からゴールデンレトリーバーのポン吉くんがいます。
愛称は「ポンちゃん」です(^^)/
はじめて出会ったときから、お人好し。
でも、我が家に到着した瞬間からおやんちゃ犬に。
いつも王様気分ですが、構ってくれないと怒ます笑
日中はだいたい寝てますが、父親の仕事に一緒に出勤することも。
定位置は社長席です!
ぬいぐるみが大好きなので誕生日にスヌーピーを買ってあげたのですが、1週間でボロボロになってしまいました。もっと可愛がって・・・と思いますが。笑
冬の楽しみは雪!
雪が降った日の朝の散歩は気が狂ったように飛び回ります。
人間が大好きで超お人好しのおやんちゃポン吉です!
東京六大学野球の品格
都市対抗だけは出たことがなく、今でも憧れるアマチュア最高峰の舞台ですが、それに匹敵するぐらいの華やかさとレベルの高さを誇るのが東京六大学野球です。
僕は、甲子園よりも好きかもしれません。負けても試合ができるので。。笑
それくらい、選手も観客も魅了される世界であります。
僕がプレーし感じた東京六大学野球の魅力を紹介したいと思います。
東京六大学野球の歴史
現在の大学野球リーグでは最も長い野球の歴史を持ちます。
プロ野球人気が沸騰するまでは、長く日本の野球人気の中心的存在でありました。
神宮球場の建設時には、東京六大学野球連盟の協力下で完成されたこともあり、連盟専用球場としてプロよりも優先した日程で使用することができます。
土日に神宮球場で開催されるリーグ戦は、大学野球の中では最多の平均入場者数を記録しており、多くのファンに楽しまれています。
1903年に開始された早稲田大学と慶應義塾大学の対抗戦(早慶戦[1])を発祥とする。1906年、応援の過熱などから早慶戦は中断されたが、明治大学(1914年)、法政大学(1917年)、立教大学(1921年)、東京帝国大学(現在の東京大学、1925年春)が参加。同年秋リーグから他校の説得により早慶戦が再開され、ここに東京六大学野球連盟として正式に発足した。翌年の1926年10月には神宮球場が東京六大学野球連盟の協力の下で完成、実質的には連盟専用球場として運用されることになる。
(Wikipediaより)
早慶戦は伝統の一戦で、このリーグ最大の見どころでもあり、日本の野球ファンの注目を浴びる伝統ある特別な一戦です。35000人近く観客が入ります。
早稲田、慶応の選手の事は敵ながら非常に羨ましく思いました。
満員になった神宮球場は荘厳な空気に包まれ、選手たちが格別の輝きを放ちます。
また、早慶戦でなくても優勝争いが激化するカードなど、2万人を超える観客を動員することもあります。
アマチュアのリーグ戦としては、ずば抜けた人気を誇ります。
さらにアマチュアながらに、硬式野球を代表して天皇杯が下賜されています。
各競技に一つしか与えられていない天皇杯は、プロ野球ではなく東京六大学野球連盟にあるのです。この天皇杯を勝ち取るために戦うのです。
華やかな世界
多数のメディア
- 新聞 号外紙
- 雑誌
- big6TV
- abemaTV
- スカイA
- ポスター
今では数多くのメディアで取り上げられるようになっています。
神宮球場に到着すると必ず目にするのが、毎週発行される日刊スポーツ号外紙。
東京六大学野球の特別紙面です。これを無料で配布しています。
近年では、ポスター撮影を行い、各シーズンごとに各大学のイメージ写真があらゆるところで掲示されています。球場や大学キャンパス、大学の最寄り駅やお世話になっている近所の店など、様々なところで知名度を上げています。
また、球場のバックスクリーンにも各校のモチベーションハイライトが流れたり選手の顔写真が映ったりと新しい試みが実施されています。
宣伝も含め、すべてが華やかな印象を受けます。
東京六大学野球専用のアプリや、「Big6TV」というインターネットメディアも立ち上がりました。
スマホ片手に全試合生中継が見られる時代です。
様々なメディアを通して、東京のリーグ戦を全国各地にお送りしている。それだけ価値あるコンテンツなのです。
伝統の応援
東京六大学野球の楽しみの一つでもあるのが応援です。
選手にとっても最高のモチベーションになり、選手と観客の心を繋いでくれます。
野球界に浸透している名物応援歌もこのリーグで生まれているものが多くあります。
各校の第一応援歌も有名なものがあります。
- 慶應義塾 「若き血」
- 早稲田 「紺碧の空」
クールで熱い応援団を中心に、これでもかと思うくらいの応援をしてくれます。
自分が出ている訳でもないのに、こんなにも応援してくれるのか。。。といくら感謝しても足りないくらい一生懸命に応援してくれるのです。
これで選手が頑張れないわけがありません。
チャンスの時、ピンチの時、球場の空気がピリピリとしてくると、応援も力が入ります。鳥肌が立つくらいの声量と一体感は是非とも球場で味わってほしいと思います。
さらに、7回の校歌(慶應は若き血)と試合後の校歌にはとても母校愛を感じます。
選手、OBOG、ファンが心を一つにする瞬間でもあります。
応援ひとつとってみても、洗練された最高峰を見ることができます。
優勝パレード
僕が4年間で非常に心が動いた瞬間でもある「優勝パレード。」
この優勝パレードには、東京六大学の品格を感じました。
わが立教大学は2017年春季リーグ戦で35シーズンぶりの優勝、続く全日本大学野球選手権でも長嶋茂雄さん以来59年ぶりの優勝を果たしました。
東京六大学野球では、優勝チームは本キャンパスへ向かって優勝パレードを行います。
僕たちは池袋駅から立教通りを通って、本学までの道を歩きました。
選手たちはオープンカーに乗ってのパレードです。
池袋西口公園でパレード開会式を行うのですが、とにかく人の集まりが半端じゃありません。
知らない人たちも何が起きているのかと野次馬感覚で次々と集まってくるのです。
公園内では身動きが取れない状態になっていました。
そこから、池袋西口をスタート地点とし、学校までの道をゆっくりと進んでいきます。
たった2km弱の沿道には1万5000人ほどが詰めかけていました。
池袋駅と繁華街には「優勝おめでとう」の垂れ幕、街のあらゆるところに、優勝フラッグが並んでいて、池袋の街全体が優勝の祝福ムードなのです。
駅前の道は警察の主導によって規制され、交通をストップさせます。
そこまでしてもパレードをやる意味は何なのか?
ここに東京六大学野球のスゴさを実感しました。
学生野球が、街を元気にするパワー、喜び、達成感、興奮。
立教の野球を知らない人たちもなぜか笑顔になっている、言葉にならない嬉しさがありました。
この日は大学4年間で池袋で一番人を見た日でもあり、居酒屋で「立教野球部」と言えば、見ず知らずの人たちがしこたま祝い酒を飲ませてくれたことを覚えています。
池袋がいつになく明るく心暖かかったことが何よりも嬉しかったです。
東京六大学野球という世界が特別な舞台であるというのは、これまでの先輩方の功績、地域の方々のご理解、ファンの方々の支えが桁違いのパワーであるに尽きると思います。
ここまでの「熱狂」が生まれる学生スポーツが日本にはあるでしょうか?
東京六大学野球がアマチュアスポーツという枠でなく、社会に大きな影響を持ち、民衆の心のエンジンとして特別な役割を持っている事に間違いありません。
これが、他のアマチュア野球やスポーツとの格の違いなのだと思います。