岐阜ホームレス殺人 ~指導者が悪いのか?~
岐阜県で起きたこの事件。
岐阜県大学野球リーグの強豪校の部員が関与していたとして、野球部の在り方や指導を問題視する声や野球部への批判が集まっています。
大変心が痛むニュースです。
当然、野球部員が起こした事件ですから、野球部として謝罪をすることは筋を通す意味でも必要なことであるし、それなりの処分が下って然るべきだとは思います。
一方で、「犯人=野球部、犯人=指導者」ではないことに違いはありません。
殺人に関わった人間が悪いに決まっているんです。。。
そいつが人間として下劣極まりないという厳しい判決を受け、一生をかけて償っていくのが本質ではないでしょうか。
野球部の指導者が持つべきポリシー
いくら犯人が悪いとはいえ、野球部の関係から4人も出てしまっては話が変わってきます。警察に相談もあったそうで、防ぐことはできたのかもしれません。
しかし、普通の人間なら「人を殺す」という感覚がなくて当然。
日常から「殺人は良くないぞ」というような教育をしていればよかったというのでしょうか?
そんなことは指導者が教えることではありまん。
人間として生まれた瞬間から親が教えることです。
残念ながら犯人たちは人間としての心が欠落しているのです。
指導者が変えることのできない人間の共通部分は、「育った地域性・家庭環境」
これは生れながらにして育まれていく他人の介入不可な領域なのです。
今回の事件も、人を殺しても平気な環境で育ってきた可哀そうな子たちの犯行でしょう。そのように思ってしまいます。
そんな子に育てたはずはない。では済まされない。やり直しはないのです。
では、野球部ではどのような指導をすればよかったのしょうか。
単純に「被害の相談があった段階で野球部を退部させておけばよかったのか?」という問題ではないと思います。
僕はこの考え方には反対です。
指導者とは、選手の”人格・人生”の請負人でなければならないからです。
心豊かな人生の1ページを創っていく
そもそも、そうならなように心の充実感を与えることが指導者の役目ではないでしょうか。
「犯罪を起こさない指導をする」「礼儀正しい人間を作る」など小さな話です。
そんなものは指導者でなくてもできます。
本質は、心の底から「熱い人生を送れている!!」と思えるようなマネジメントをすることだと思っています。
それが野球でもバスケでもサッカーでも同じ。
はたまた吹奏楽、演劇、なんでも同じでしょう。
心の底から夢中になれる。熱くなれる。本気になれる。
そんな時間と組織を創り出していくのが指導者の役目です。
「礼儀を教える」なんてものが目的化しているような組織は本物ではないと思っています。
なぜ礼儀が大切なのか?を突き詰められるか、体現できるかが肝心でしょう。
挨拶ができれば何をしてもいいのか?
そんなことを学ぶためにに野球をやっているのではありません。
全ての事象に人間の心が通っている
他人の心がわかる人、自分の心を受け取ってもらえる人
その心の先に「礼儀」「マナー」「ルール」が存在するという順番を忘れてはなりません。
野球を通して、そんな人格を創っていくのが指導者の役目ではないでしょうか。
そして、野球を通じて心豊かな瞬間を噛みしめること。その体験で今後の人生をさらに豊かなモノにしていくことが必要なのです。
ですから、甲子園に行ったことのある人間は、心豊かな体験が増え、今後の人生の糧になっていきます。
良いとか悪いとではなく、必ずプラスになる事があるということです。
鳥肌が立つエネルギーが漲ってくるような経験、人生を送りたいですよね。
それがスポーツの良さでもあります。
今回の殺人と野球部は切っても切り離せない立ち位置であるということ。
心が育つ環境を作り与えてあげることは指導者の仕事。
これが現場で生徒たちを見ていて僕が感じることです。